モードは、そもそも、アドリブを如何に自由に行うかということを、突きつめた結果、
単調なコード進行と、それにみあったスケール、ということで、いくつかのスケールが、
かかげられただけのはず。
現にコルトレーンは、Fのブルース(ロックのように単純な3コードではないが)のアドリブは、「F一発だ」と言っているから。
だからそれぞれのモードが民族音楽など、特徴を持ったスケールであるわけで、
上の動画は、たまたま、モードのうちのいずれかのスケールが元になっている地域の
作曲家によるもの、という解釈ではないだろうか?
ちなみに、モダンジャズ系でロックを特別演奏したことないやつがよく言うのは、
「ロックのソロは、ペンタトニックスケールとブルーススケール(に聴こえる)」
モードの中に、沖縄民謡のスケールとか、中国のスケール、日本的スケール、というようなものが掲げられていたなら、
当然そのスケールを使ってなされたアドリブソロは、日本風だったり、沖縄風だったりするわけで、
それを聞いて、日本の曲に似ている、これはモードだ、ともしなるのだとしたら、話は逆なように思う。
ちなみに、モードの次には、コルトレーンはフリージャズ的アプローチを始めて、
より自由なアドリブソロと目指すようになる。
結局、フリージャズになったら、Dm7いっぱつの曲があったとしても、
スタンダードナンバーがあったとしても、モードもコード分解もへったくれもなくなるわけで、
(正にF一発の世界)、モードは、60年代後半の、「アドリブはどこまで自由になれるか?」の試行錯誤の過程だった、ということでいいように思う。
今は、モードと言っても、そういう理論がある、ということを参考にはするが、
それが特別なものではなく、ほとんどの演奏者が自分の素養の範囲で、
モードという理論にはとらわれずに演奏していると感じる。
返信する